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高島匡未によるエッセイ
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結婚して幾年。
なんだか転勤族ばりに3回目の引越し。(別に転勤ではない)
新しい土地は瀬戸内海に面した日本で一番小さな県だ。
九州訛りの私は、まだ土地の言葉が分からないこともあり聞き返すことはあるけれど、今のところ生活は自転車(あと車!)さえあれば割と便利である。土地の風にも少し慣れてきた。
港が近いので自転車でぷらぷらしている時などたまに潮の香りも漂ってくる。
防波堤から覗き込む海は割りと澄んでいて、くらげが水面で浮かんでいたりする。海風はひんやり。風強い。空気もきれい。雨少ない。のんびりしてる。静かな街。土地の空気に身を委ねるのか、はたまた彷徨ってしまうのかそれは自分次第の分かれ道。引っ越す前の色々な気持ちとかをぎゅっと体の真ん中にしまいこんで、今はただ時間の中で突破口を探しているのだ。
地方都市に居ると、東京のことが気になる。
これは地方都市に住む人はきっとみんな同じではないかと思う。
東京に憧れはないけれど、東京を無視することはできない。
秒単位で状況が変わっていく東京の姿を目の当たりにすると、せっかちな私はついつい気持ちが空回りしてしまうのだが、「動かす」のは東京で、無いものを「作る」のは地方。最良ではないけれど、ひとつの手段だと思っている。「作る」と「動かす」の相互作用をうまく使い分けなければ物事は進まない。
「顧客の創造」
有名な経済学者の言葉だけれど、今の私には耳が痛い言葉だ。
顧客を私の音楽を待ってくれている人に置き換えてみる。
私の音楽をどれだけの人が待ってくれているのか分からないけれど、どんな展開になっても期待して待ってくれている人のために、私は何ができるだろうか。感謝を音楽に。良い作品を作りたい。良いライブがしたい。良い。良いってなに?何が基準なの?探して、求めて、10年以上の月日が過ぎ、以前よりももっともっと貪欲になっていく。
どんなに良いものを作っても動かさなくては誰の心にも届かない。
「作る」と「動かす」交わるところは見えるのかな?
ずっと抱いてきた疑問がある。
この疑問(というか問いかけ)をテーマに日常の煙を書こうと思いつつもう半年。ようやくきちんと腰を据えてこの疑問について書いてみようと思い立ったのである。(要は携帯から更新するのではなく、パソコンに向ってようやく文章を書く時間ができたということ)
常々、年上の方がこのようにおっしゃることがある。
「最近の若者は挨拶もろくにできん」
「最近の若者は歩き煙草するから危ない!」
「最近の若者は・・・・・・」
「私達が若い頃はもっと良かった・・・」
この最近の若者は・・・の後に続くお決まりの言葉達。用途としては若者文化を否定的に捉えて非難する時に使っているのだろうけれど、これって今現在の若者だけに言えることなんだろうか?
じゃあ先輩方の若い頃はどうだったのですか?と逆に言いたくなってしまう。例えば、40年前。空前のヒッピー文化。あの時代は独特な若者文化が突出していた時代だったのではないか?当時の若者達は、更に上の世代から「最近の若者は・・・・」と言われていたのではないか?そして、更に上の、また上の。歴史は繰り返しているのである。時代が変わろうとしていることをどうしても受け入れられずに、若者の所為にしているのではないか?
変わらないことだってたくさんある。
最近の若者だけじゃなくてもこちらが挨拶しても返してくれない上司とかいるし、歩き煙草をするおじさんもたくさんいる。ポイポイゴミも捨ててるし、理由もわからないまま罵倒する人もたくさんいる。若者だけの特権ではないはずだ。もちろん中には歩き煙草など他人に迷惑がかかってしまう行動を取っている若者もいる。でもそれは若者の中の一部。「最近の若者は」とひと括りにしてしまうのがどーうしても納得できないのである。
若者だって礼儀正しい子もいるし、人それぞれ。世代なんて関係ないのだ。
人は時代の中で生きているのだし、新しい時代を作るのは常に人である。
お互い寄り合えばいいじゃない。
まだまだ若輩者とはいえ、私は年々歳を増していき、自分より若い人がどんどん増えていくばかりだ。ここまで私が成長できたのは人生の先輩方のおかげだし、まだまだわからないことがたくさんある。だから、人生の先輩からもっと多くのことを学びたいし、敬う気持ちももっともっと強く持っていたい。
若者だからどーだとか、そんな簡単な言葉で全部をひと括りにしないで欲しい。
世代など関係ないのだから。
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